広島の晴れた青い空から、

ヘリコプターの音がすると

B29をイメージし、体験していない私でも

怖く感じるのです。

 

「広島86815 & 長崎89112 project」は、

私が子どもの頃から受けてきた平和学習や

私の祖母からの被爆体験話から

立ち上げた平和活動プロジェクトです。

 

広島と長崎に原子爆弾が落とされたのは、今から75年前。

 

昔のことだけど、

 

たった75年前に起きたことで

今もなお、核兵器を持ち続けている国があるということ。

 

戦争はいつ起こるかもしれない状況である今、

子どもたちに

夢を自由に追いかけられる世界であることを望みます。

 

 

 

 

 

Atomic bomb dropped

 

on

 

Hiroshima & Nagasaki

 

 

Hiroshima / At 8:15 am on August 6, 1945

Nagasaki / At 11:02 am on August 9, 1945


1945年

8月6日

8:15

ー 広島に原爆投下 ー

 

一瞬で火の海、焼け野原。人も動物も植物も皆、炭と化す。祖母は外れた場所にいた為、命は助かる。が、家族の安否を確かめる為、翌日広島市内に入り被爆(入市被爆)。「道なんかない、足元は瓦礫や人でいっぱいで歩き辛く、匂いも…」当時17歳だった祖母は、どれほどの傷を心に負ったのか。笑顔の祖母しか知らない私は話を聞くことができず、この世を去った。

被爆建物、世界遺産に登録された「原爆ドーム」が見える原爆死没者慰霊碑の石棺には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれている。

 

A sea of flame to burnt ruins in a blink of an eye. A man, an animal, a tree, or anything turned into a coal. My grandmother survived the atomic bomb as she was out of Hiroshima City, but soon became a victim of the radiation when she came back to the city in search of her family. "There was no road. I had difficulties walking the ground filled with debris and people, and the smell..." How deep was the trauma a then-17-year-old girl had to go through? I could never dare to ask the question to my grandmother who always kept a smile before me, until she passed away.
The Cenotaph of the Memorial Monument for Hiroshima which overlooks the Peace Memorial (Genbaku Dome), a UNESCO World Heritage, carries the epitaph "let all the souls here rest in peace, for we shall not repeat the evil."

 1945年

8月9日

11:02

ー 長崎に原爆投下 ー

 

日本に二度の原爆が投下された。広島の原爆投下からたった3日後。その間に広島から長崎へ移動し、二度も被爆した『二重被爆』という運命を背負う人達が存在する。

この世にないくらい恐ろしく悲惨な体験を二度も…両県に造船工場があったり、軍人や看護師の方々が多かったそう。

長崎には平和公園に「原爆の脅威」を右手、「平和」を左手、「救った命」は立てた左足で表現された平和祈念像がある。神の愛と仏の慈悲を象徴している。『最後の被爆地に』と長崎の原爆投下を最後に「核兵器廃絶」を訴える。

 

The second atomic bomb was dropped again in Japan - merely three days after Hiroshima. Moving from Hiroshima to Nagasaki,they experienced the tragedy of being a "double atomic bomb victim" - suffering twice the catastrophe that could never be imagined.
They once told me that the both cities had shipyards in common and there were many soldiers and nurses.
In the Nagasaki Peace Park stands the Peace Statue, with there right hand pointing upright to the threat of nuclear weapons, his horizontally extended left hand symbolizing peace, and there bended left knee representing saved lives. Nagasaki calls on the world to make it the Last Bomb and to realize a world without nuclear weapons.


この地球上の人間や動物、植物は何のために生きるのか。

 

互いに助け合う中で喜びや悲しみ、怒りという感情を味わい、

 

成長しあえる世界をどうして続けられないのか。

 For what reasons, do human, animals, and plants on Earth live for?
Why can’t we help each other, sharing the feelings of joy, sorrow, anger, to make the world peace and better?

私は広島出身、広島育ちです。

私の祖母は、入市被爆をしました。

 

当時17歳の祖母は、アサヒ兵器製作所に勤めており、地御前の工場に居ました。以前は江波にあったそうです。

原爆が投下された爆心地から、約2〜3kmにある舟入に家族と住んでいました。

爆音に気づき工場の外へ出ると、大きなキノコ雲が見えたそうです。

家族の安否が気になり、知り合いのおじさん(のち結婚する祖父の父親)のトラックで向かいました。

五日市まで来たところで入市ができないと足止めをされましたが、徒歩で市内へ向かったそうです。

舟入近辺に着いたのは翌日。自宅があるはずの場所は、辺り一面焼け野原。匂いは言葉では言い表せないほどだと…

家族が見当たらないため、家族を探しに、江波〜宇品と3日間も歩き続けても見つからず。

舟入に戻ってみると、父が帰って来ており、母の安否は無事だと聞いたそうです。

祖母には兄弟がいましたが、これ以上の情報は不明のままです。

被爆体験の話はここで終わります。

 

祖父は遺書が残っており、その一部を記します。

祖父の父の再婚相手は、斜屋町(ちぎやちょう:当時 流川町の一部)に菊水旅館を主営。その旅館は全て焼け、9月原爆症で死去。

祖父の兄は、メレヨン島で戦死。11月の新聞で戦死が判明したそう。

祖父は、戦時中は横浜専門学校へ通い、商業科の理科系だったため一旦入隊は避けられたが、卒業後、入隊し甲種幹部候補生・乙種幹部候補生の資格が与えられ、のち軍曹に任官したそう。終戦後、四国高知に敵が上陸してくる場合に備えて、野砲を山の中に設置…

と書かれていました。(所々、字が読めない箇所がありまして…分かる範囲内で記載しています)

 

 

 

広島出身の祖先・親族がいて

広島に生まれ広島で育った私は、

被爆3世です。

私ができること。

子どもたちに伝え残していくこと。

私の使命でもあると信じて、

活動いたします。

 

 

樅田 裕美

Hiromi Momita

 

 

 



広島86815 & 長崎89112 project は、

平和を願う「世界参加型」のプロジェクトです。

 

 

世界各国で

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参加したい方は

中国新聞社さまが取り上げてくださいました。

2017.10.27

 

2017.12.12

朝日新聞さまが取り上げてくださいました。

2018.7.4